『峨眉山月歌』李白
『峨眉がび山月さんげつの歌うた』とは盛唐の詩人・李白りはく(701~762)の代表的作品の一つです。七言絶句、わずか28の文字の中に5つの地名・12の文字、残りわずか26の文字で雄大な景色と時の流れ、そして抒情じょじょうを歌っています。
ここでは『峨眉山月歌』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・作者である李白の紹介をしていきます。
『峨眉山月歌』の原文
峨眉山月半輪秋
影入平羌江水流
夜発清溪向三峡
思君不見下渝州
『峨眉山月歌』の書き下し文
峨眉山月 半輪りんの秋
影は 平羌江へいきょうこうの水に入りて流る
夜 清溪せいけいを発して 三峡に向かう
君を思えど見えず 渝州ゆしゅうに下る
『峨眉山月歌』の現代語訳
峨眉山の上に見える秋の月は半月
月の光が平羌江へいきょうこうの水に映って流れる
夜清溪せいけいから船出して三峡に向かう
君を思っても君は見えず 船は渝州ゆしゅうに下っていく
『峨眉山月歌』の解説
この詩は李白24、5歳のころ、故郷の蜀から長江を下って諸国巡りの旅に出た時の詩とされています。
李白の生きた唐の王朝時代、立身出世を願う若者は中央政界での活躍を夢見ました。天子のそばで良き政治をする助けとなりたい、そうしてこその人生だと願っていたのです。
中国で役人になるにはかの有名な「科挙」という試験を突破しなければなりませんが、実はこの時代の科挙は万民に開かれたものという建前はあるものの、一族に商人や職人などがいればこの試験を受けることはできませんでした。
また仮に受験資格があったとしても有力者のつてがなければ仕官することもできなかったのです。
李白の父は裕福な商人で教育にも熱心だったと言われます。幼い頃からすぐれた才能を見せていたという李白、自分を中央官庁に売り込んでくれそうな有力者のつてを探すのを目的として、父親からたっぷりと旅費をもらって諸国行脚、人生の輝かしい幕を開けるべく武者修行の旅に出た時の詩がこの「峨眉山月歌」で、李白初期の代表作と言われています。
峨眉山は蜀・今の四川省の名山で標高3098メートル、仏教や道教の聖地でもあるこの山は李白にとってなつかしいふるさとのシンボルでした。秋の夜、故郷の我が家を後にしてかたわらの峨眉山に目をやるとそこには半月がかかっています。その月の光はこの峨眉山の東を流れる平羌江(へいきょうこう)に映り、船の動きとともに月もついてくるのでしょう。月の光を「影」という言葉で表しています。「影」には「ものの影」という意味と「光」という意味があってここでは「月の光」を意味しています。
平羌江という川は三国時代蜀と魏の間に割拠した少数民族羌族(チャン族)と関係があるのでしょうか。この河は現在「青衣江」と呼ばれますが、「青衣」は京劇の女性役を意味する言葉でもあります。女性らしさをたたえた河なのかもしれません。
船は宿場「清渓」から出て長江の難所「三峡」に向かい、「渝州」に下っていきます。
三峡は重慶から湖北省にかけて連なる3つの峡谷「瞿塘峡」「巫峡」「西陵峡」を言い、三峡ダムができた今も迫力ある絶景で有名です。ここは水の流れが速く暗礁にぶつかって難破する可能性が高く長江の難所です。ここを越えると「渝州」、渝州は唐代の地名で現在の重慶を指すのだと言います。重慶は広く、そのどのあたりになるのでしょうか。李白はこの時「江陵」まで下ったという説もあります。江陵ならば現在の湖北省荊州、長江をぐっと東に下ったところです。
李白は青春の日の秋、四川省の峨眉山を出発して清渓から三峡を越え湖北省あたりまで、難所を無事に越え海のような長江を下っていったのでした。
さてこの詩で気になるのは「君を思う」の「君」は何を指すのかということです。
普通は「月」を指すと解釈するのですが、「月」に君と呼びかける例は他にあまりなく、やはりここは故郷に残した美しい女性を指すのではという専門家も。
さらには「君」は「月」を指すのだが、月は慕わしくても近づけない、眺めていても触れることはできない、だから友を想う心の象徴なのだという解釈も。
「峨眉山」の「峨眉」は「蛾眉」に似て、「蛾眉」は女性の美しい眉を意味します。「月」もまた女性がイメージされる言葉。「君」は峨眉山の月であり、その月はまた美しい女性でもある…この言葉からはいろいろなイメージが浮かび、まあどうとでもお好きに取ってくださいよ、と李白は言っているのかもしれません。
いずれにせよこの詩の最後で、未来に向かう心と裏腹の自分を故郷に引き留めようとするある種の未練、ある種の不安が見え隠れしているような気がします。
『峨眉山月歌』の形式・技法
『峨眉山月歌』の形式……七言絶句(7字の句が4行並んでいます)。
『峨眉山月歌』の押韻……「秋、流、州」。
『峨眉山月歌』が詠まれた時代
唐の時代区分(初唐・盛唐・中唐・晩唐)
唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。
『峨眉山月歌』が詠まれたのは盛唐の頃です。
『峨眉がび山月さんげつの歌うた』とは盛唐の詩人・李白りはく(701~762)の代表的作品の一つです。七言絶句、わずか28の文字の中に5つの地名・12の文字、残りわずか26の文字で雄大な景色と時の流れ、そして抒情じょじょうを歌っています。
ここでは『峨眉山月歌』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・作者である李白の紹介をしていきます。
『峨眉山月歌』の原文
峨眉山月半輪秋
影入平羌江水流
夜発清溪向三峡
思君不見下渝州
『峨眉山月歌』の書き下し文
峨眉山月 半輪りんの秋
影は 平羌江へいきょうこうの水に入りて流る
夜 清溪せいけいを発して 三峡に向かう
君を思えど見えず 渝州ゆしゅうに下る
『峨眉山月歌』の現代語訳
峨眉山の上に見える秋の月は半月
月の光が平羌江へいきょうこうの水に映って流れる
夜清溪せいけいから船出して三峡に向かう
君を思っても君は見えず 船は渝州ゆしゅうに下っていく
『峨眉山月歌』の解説
この詩は李白24、5歳のころ、故郷の蜀から長江を下って諸国巡りの旅に出た時の詩とされています。
李白の生きた唐の王朝時代、立身出世を願う若者は中央政界での活躍を夢見ました。天子のそばで良き政治をする助けとなりたい、そうしてこその人生だと願っていたのです。
中国で役人になるにはかの有名な「科挙」という試験を突破しなければなりませんが、実はこの時代の科挙は万民に開かれたものという建前はあるものの、一族に商人や職人などがいればこの試験を受けることはできませんでした。
また仮に受験資格があったとしても有力者のつてがなければ仕官することもできなかったのです。
李白の父は裕福な商人で教育にも熱心だったと言われます。幼い頃からすぐれた才能を見せていたという李白、自分を中央官庁に売り込んでくれそうな有力者のつてを探すのを目的として、父親からたっぷりと旅費をもらって諸国行脚、人生の輝かしい幕を開けるべく武者修行の旅に出た時の詩がこの「峨眉山月歌」で、李白初期の代表作と言われています。
峨眉山は蜀・今の四川省の名山で標高3098メートル、仏教や道教の聖地でもあるこの山は李白にとってなつかしいふるさとのシンボルでした。秋の夜、故郷の我が家を後にしてかたわらの峨眉山に目をやるとそこには半月がかかっています。その月の光はこの峨眉山の東を流れる平羌江(へいきょうこう)に映り、船の動きとともに月もついてくるのでしょう。月の光を「影」という言葉で表しています。「影」には「ものの影」という意味と「光」という意味があってここでは「月の光」を意味しています。
平羌江という川は三国時代蜀と魏の間に割拠した少数民族羌族(チャン族)と関係があるのでしょうか。この河は現在「青衣江」と呼ばれますが、「青衣」は京劇の女性役を意味する言葉でもあります。女性らしさをたたえた河なのかもしれません。
船は宿場「清渓」から出て長江の難所「三峡」に向かい、「渝州」に下っていきます。
三峡は重慶から湖北省にかけて連なる3つの峡谷「瞿塘峡」「巫峡」「西陵峡」を言い、三峡ダムができた今も迫力ある絶景で有名です。ここは水の流れが速く暗礁にぶつかって難破する可能性が高く長江の難所です。ここを越えると「渝州」、渝州は唐代の地名で現在の重慶を指すのだと言います。重慶は広く、そのどのあたりになるのでしょうか。李白はこの時「江陵」まで下ったという説もあります。江陵ならば現在の湖北省荊州、長江をぐっと東に下ったところです。
李白は青春の日の秋、四川省の峨眉山を出発して清渓から三峡を越え湖北省あたりまで、難所を無事に越え海のような長江を下っていったのでした。
さてこの詩で気になるのは「君を思う」の「君」は何を指すのかということです。
普通は「月」を指すと解釈するのですが、「月」に君と呼びかける例は他にあまりなく、やはりここは故郷に残した美しい女性を指すのではという専門家も。
さらには「君」は「月」を指すのだが、月は慕わしくても近づけない、眺めていても触れることはできない、だから友を想う心の象徴なのだという解釈も。
「峨眉山」の「峨眉」は「蛾眉」に似て、「蛾眉」は女性の美しい眉を意味します。「月」もまた女性がイメージされる言葉。「君」は峨眉山の月であり、その月はまた美しい女性でもある…この言葉からはいろいろなイメージが浮かび、まあどうとでもお好きに取ってくださいよ、と李白は言っているのかもしれません。
いずれにせよこの詩の最後で、未来に向かう心と裏腹の自分を故郷に引き留めようとするある種の未練、ある種の不安が見え隠れしているような気がします。
『峨眉山月歌』の形式・技法
『峨眉山月歌』の形式……七言絶句(7字の句が4行並んでいます)。
『峨眉山月歌』の押韻……「秋、流、州」。
『峨眉山月歌』が詠まれた時代
唐の時代区分(初唐・盛唐・中唐・晩唐)
唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。
『峨眉山月歌』が詠まれたのは盛唐の頃です。
【大天狗(赤城ウェン)】
善悪の両面を持つ妖怪もしくは神であり協力な神通力を持つ。優れた力を持った元人間の死後の姿。日本の大魔王と呼ばれる存在であり日本三大妖怪の一柱。
※火の鳥やふらり火の可能性あり
【龍神/乙姫(天宮こころ)】
鐘を好むとされる水の神。伝説上の生き物龍の姿をしている。水神の中でも特に強力な力を持ち、各所で祀られている。雨をもたらしたり竜宮から魚をもたらしたりと、人間の生活に深く関連している。
【雷獣(伊波ライ)】
雷とともに地上に降りて草木や人畜を害す存在。雷の化身であり、様々な動物の姿を取りながら激しく光る。
何故かトウモロコシが大好きだという伝承が残っている。
【提灯小僧(卯月コウ)】
子どもの姿で提灯を持って夜道に現れ、追い越しては振り返って止まり、追い越しては振り返って止まりという謎行動を繰り返す妖怪。特に危害もなく、周りを明るくしてくれる。嬉しい。
【九尾の妖狐(叶)】
泰平の世を表す神獣であると共に、美しい女性の姿に化けて世を惑わす傾国の存在。日本三大妖怪の一柱。
【(おそらく)がしゃどくろ(葛葉)】
埋葬されなかった死者たちの骸骨や怨念が集まった存在。ガシャガシャ音を出し生者を見つけると食らう。骸骨や霊にお供え物をすると、生前の姿で現れるらしい。
【うわばみ(弦月藤士郎)】
鹿を丸飲みできるほど巨大な蛇で小さなネズミの耳を持つ。土地によっては"なます"にして食べたり、肝は薬にもなった。大酒飲みを「うわばみ」と呼ぶのは巨大な獲物を丸飲みすることから転じて生まれたという説がある。
【烏天狗(剣持刀也)】
剣術に秀で、空を自在に駆ける。都まで降りてきて神通力を使い猛威を振るった伝説も、人間に剣術を教えた伝説も残っている謎多き存在。
【夜雀/送り雀(小清水 透)】
夜にチッチッチッと鳴きながら現れる存在。人の反感を買うように周りを飛ぶが、気を静めると消えるらしい。
別の妖怪が現れる前兆、もしくは近くに居る間は別の妖怪から守ってくれているとも。
【猫又(三枝明那)】
猫の妖怪。山の中にいて大型で襲ってくる存在と、飼われていた猫が年老いて化ける2通りがあると言われている。伝承も様々で、旅人や家畜を襲ったり、化けた後元の飼い主に恩返しをするものいる。
【からかさ小僧(笹木咲)】
捨てられた唐傘が妖怪へと変貌したとも、長年使われて付喪神と化したともいわれる存在。付喪神の中でも特にポピュラーな存在だが、具体的に何をする妖怪なのか伝承は残っていない。
あなたの愛用の傘ももしかしたら…
【狼男(シェリン・バーガンディ)】
半狼半人のもっとも有名な獣人。月に影響される性質で満月の夜に正体を現すことが多く、冷酷とも粗暴ともいわれている。以前は普通の人間だったが、狼の霊や呪いにより獣人になった例が多い。
【(おそらく落語から)死神(ジョー・力一)】
男はある死神に"足元の死神"の消し方を教わって名医となるが、次第に"枕元の死神"患者しかいなくなりヤブと言われ始める。患者を180°回転させ即死神を消して大金をもらったが、帰路で最初の死神が現れ医者を大量の蝋燭が灯った洞窟に連れていく。死神曰くこれは人の寿命で、180°回転行為のせいで患者と医者の寿命が入れ替わったという。
消えゆく蝋燭を前に死神は新しい蝋燭を差し出し、医者が自分で火を継げば寿命が延びると言うが、焦った医者は…
善悪の両面を持つ妖怪もしくは神であり協力な神通力を持つ。優れた力を持った元人間の死後の姿。日本の大魔王と呼ばれる存在であり日本三大妖怪の一柱。
※火の鳥やふらり火の可能性あり
【龍神/乙姫(天宮こころ)】
鐘を好むとされる水の神。伝説上の生き物龍の姿をしている。水神の中でも特に強力な力を持ち、各所で祀られている。雨をもたらしたり竜宮から魚をもたらしたりと、人間の生活に深く関連している。
【雷獣(伊波ライ)】
雷とともに地上に降りて草木や人畜を害す存在。雷の化身であり、様々な動物の姿を取りながら激しく光る。
何故かトウモロコシが大好きだという伝承が残っている。
【提灯小僧(卯月コウ)】
子どもの姿で提灯を持って夜道に現れ、追い越しては振り返って止まり、追い越しては振り返って止まりという謎行動を繰り返す妖怪。特に危害もなく、周りを明るくしてくれる。嬉しい。
【九尾の妖狐(叶)】
泰平の世を表す神獣であると共に、美しい女性の姿に化けて世を惑わす傾国の存在。日本三大妖怪の一柱。
【(おそらく)がしゃどくろ(葛葉)】
埋葬されなかった死者たちの骸骨や怨念が集まった存在。ガシャガシャ音を出し生者を見つけると食らう。骸骨や霊にお供え物をすると、生前の姿で現れるらしい。
【うわばみ(弦月藤士郎)】
鹿を丸飲みできるほど巨大な蛇で小さなネズミの耳を持つ。土地によっては"なます"にして食べたり、肝は薬にもなった。大酒飲みを「うわばみ」と呼ぶのは巨大な獲物を丸飲みすることから転じて生まれたという説がある。
【烏天狗(剣持刀也)】
剣術に秀で、空を自在に駆ける。都まで降りてきて神通力を使い猛威を振るった伝説も、人間に剣術を教えた伝説も残っている謎多き存在。
【夜雀/送り雀(小清水 透)】
夜にチッチッチッと鳴きながら現れる存在。人の反感を買うように周りを飛ぶが、気を静めると消えるらしい。
別の妖怪が現れる前兆、もしくは近くに居る間は別の妖怪から守ってくれているとも。
【猫又(三枝明那)】
猫の妖怪。山の中にいて大型で襲ってくる存在と、飼われていた猫が年老いて化ける2通りがあると言われている。伝承も様々で、旅人や家畜を襲ったり、化けた後元の飼い主に恩返しをするものいる。
【からかさ小僧(笹木咲)】
捨てられた唐傘が妖怪へと変貌したとも、長年使われて付喪神と化したともいわれる存在。付喪神の中でも特にポピュラーな存在だが、具体的に何をする妖怪なのか伝承は残っていない。
あなたの愛用の傘ももしかしたら…
【狼男(シェリン・バーガンディ)】
半狼半人のもっとも有名な獣人。月に影響される性質で満月の夜に正体を現すことが多く、冷酷とも粗暴ともいわれている。以前は普通の人間だったが、狼の霊や呪いにより獣人になった例が多い。
【(おそらく落語から)死神(ジョー・力一)】
男はある死神に"足元の死神"の消し方を教わって名医となるが、次第に"枕元の死神"患者しかいなくなりヤブと言われ始める。患者を180°回転させ即死神を消して大金をもらったが、帰路で最初の死神が現れ医者を大量の蝋燭が灯った洞窟に連れていく。死神曰くこれは人の寿命で、180°回転行為のせいで患者と医者の寿命が入れ替わったという。
消えゆく蝋燭を前に死神は新しい蝋燭を差し出し、医者が自分で火を継げば寿命が延びると言うが、焦った医者は…
輪島 朝市通り火災は1か所から拡大した 重なった想定外と誤算
2024年2月1日 8時58分
石川県輪島市の観光名所「朝市通り」では、能登半島地震で発生した火災で200棟以上が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
1か所から出た火の手は瞬く間に広がり、多くの住民が犠牲になった。なぜ火災は拡大し、住民たちの命を救うことはできなかったのか。
火災について取材を進めると、消火活動を阻むいくつもの想定外と誤算が重なっていたことがわかった。
帰省中だった清水宏紀さん(46)の実家は朝市通りのすぐそばにあった。
ゆったりとした元日を、父の博章さん(73)と、母のきくゑさん(75)の3人で過ごしていた。
ケーキを食べながら、2日前に誕生日を迎えたきくゑさんを祝っていた。
午後4時すぎ、輪島市で震度4と震度7の地震が相次いで発生。
1回目の揺れのあと、清水さんは「津波がくるかもしれない」と思い、駐車場に止めてある車のもとへ向かった。
そのとき、2回目の大きな揺れが発生し、実家の1階部分が完全につぶれて倒壊した。
この朝市通りの火災では、200棟以上の住宅や店舗が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
なぜここまで被害が拡大したのか。
地震発生から1時間余りたった午後5時23分。
救助活動に向かった消防隊が火が出ているのを発見し、ちょうど同じころ、輪島市の消防団で団長を務める川端卓さんも火災に気付いた。
消防団長 川端卓さん
「外を見回っていたとき、なんとなく空のほうに火の気を感じた。それで慌てて朝市通りに近づいたら建物2棟から火が上がっていた」
消防が火災を発見したとき、燃えていたのは、朝市通りの南側にある、隣接する2棟の建物の1か所だった。
すぐに消火活動を始めようとしたが、うまく進められない。
火はここから次々と延焼していった。
最初に到着した消防署員は、消防車を火元の南側に止め、ホースを伸ばして放水しようとした。
水道管が壊れて断水が起きて、消火栓は使えなかったため、近くを流れる河原田川の水を使うことにした。(地図1の場所)
ところが、地震による地盤の隆起が影響したのか、川にはほとんど水が流れておらず、消火に十分な水をくみ上げることはできなかった。
延焼をくい止めるには、火元を複数の所から囲うようにして放水するのが有効だとされている。
このため、先に駆けつけた消防署員を支援すべく、団長の川端さんは、火元の東側からの放水を試みた。(地図2の場所)
ここでも消火栓は断水していたため、地下に水を貯めた防火水槽を使おうとした。
しかし、道路を塞ぐがれきが行く手を阻み近づくことができない。
断水でも使えるはずの防火水槽が使えないのは誤算だった。
川端さんは、場所を火元の西側に移動し、川の水を使おうとしたが、やはり川の水はほとんど流れておらず、消火活動をすることはできなかった。(地図3の場所)
結局、初期に放水できたのは、最初に駆けつけた消防車の1台だけで、それもわずかな川の水しか使えず十分ではなかった。
初期消火の機会を逃すと、火の勢いは増していく。
輪島市では地震発生直後に1メートル20センチ以上の津波が観測されている。
地震発生後から大津波警報や津波警報が出されていたため、海に行って海水を供給することはできなかった。
朝市通りには、古くからの木造の建物が多く、倒壊した建物や家財はより燃えやすくなっていた。
火は道路を覆うがれきを伝いながら、火の粉も風に舞って燃え広がっていった。
川端さんは「このままでは街が大変なことになる」と感じた。
その後、続々と入った消防は、ホースを何十本もつないで、離れた場所にある防火水槽や小学校のプールの水を使って放水した。
しかし、火はすでに街全体を飲み込むように広がっていて、水の力は及ばなかった。
消防団長 川端卓さん
「消しようがなかったんです。もうこれはダメだなと思いました。火の粉が頭の上を越えて向かい側の建物の屋根のほうに飛んでいくのがずっと見えていました。力不足でした」
津波警報が注意報に切り替わった翌2日の未明。
消防は海水をくみ上げて消火を始めた。
海から大量に供給された水で、ようやく火の勢いを食い止めることができた。
そして午前7時半、朝市通りの火災は鎮圧したが、辺り一帯の建物は焼け落ち、かつての賑やかな町並みはなくなっていた。
専門家「防火水槽 使えなかったことを教訓に」
今回の火災を専門家はどう受け止めているのか。
消防行政に詳しい東京理科大学の小林恭一教授はこう話す。「阪神・淡路大震災では、消火栓が断水で使用できず火災が広がった教訓から、断水が起きても利用できる防火水槽の整備が進められた。しかし今回、その防火水槽が使用できなかったことを教訓にしなければならない。防火水槽の取水口を離れた場所にも複数設けて、1か所に障害物があっても他の所を使える対策をとるべきだ。
木造家屋密集地が全国各地にあって、地震で火災が起きると、消防隊が活動できない場合があるので、木造家屋の不燃率を上げていくことも継続的にやっていかなければならない」
さらに、大津波警報や津波警報が出されていた中、浸水想定区域で消火活動を強いられたことについて、小林教授は「今回は津波が火災現場に到達しなかったが、津波が来ていれば多くの殉職者が出たおそれもある」として、国が消火活動の安全に対する明確な基準や制度を示すべきだと指摘している。
さまざまな想定外が重なり、被害が広がった輪島市の朝市通りでの火災。
想定外を減らし、被害を拡大させないための取り組みを進めなければならない。
2024年2月1日 8時58分
石川県輪島市の観光名所「朝市通り」では、能登半島地震で発生した火災で200棟以上が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
1か所から出た火の手は瞬く間に広がり、多くの住民が犠牲になった。なぜ火災は拡大し、住民たちの命を救うことはできなかったのか。
火災について取材を進めると、消火活動を阻むいくつもの想定外と誤算が重なっていたことがわかった。
帰省中だった清水宏紀さん(46)の実家は朝市通りのすぐそばにあった。
ゆったりとした元日を、父の博章さん(73)と、母のきくゑさん(75)の3人で過ごしていた。
ケーキを食べながら、2日前に誕生日を迎えたきくゑさんを祝っていた。
午後4時すぎ、輪島市で震度4と震度7の地震が相次いで発生。
1回目の揺れのあと、清水さんは「津波がくるかもしれない」と思い、駐車場に止めてある車のもとへ向かった。
そのとき、2回目の大きな揺れが発生し、実家の1階部分が完全につぶれて倒壊した。
この朝市通りの火災では、200棟以上の住宅や店舗が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
なぜここまで被害が拡大したのか。
地震発生から1時間余りたった午後5時23分。
救助活動に向かった消防隊が火が出ているのを発見し、ちょうど同じころ、輪島市の消防団で団長を務める川端卓さんも火災に気付いた。
消防団長 川端卓さん
「外を見回っていたとき、なんとなく空のほうに火の気を感じた。それで慌てて朝市通りに近づいたら建物2棟から火が上がっていた」
消防が火災を発見したとき、燃えていたのは、朝市通りの南側にある、隣接する2棟の建物の1か所だった。
すぐに消火活動を始めようとしたが、うまく進められない。
火はここから次々と延焼していった。
最初に到着した消防署員は、消防車を火元の南側に止め、ホースを伸ばして放水しようとした。
水道管が壊れて断水が起きて、消火栓は使えなかったため、近くを流れる河原田川の水を使うことにした。(地図1の場所)
ところが、地震による地盤の隆起が影響したのか、川にはほとんど水が流れておらず、消火に十分な水をくみ上げることはできなかった。
延焼をくい止めるには、火元を複数の所から囲うようにして放水するのが有効だとされている。
このため、先に駆けつけた消防署員を支援すべく、団長の川端さんは、火元の東側からの放水を試みた。(地図2の場所)
ここでも消火栓は断水していたため、地下に水を貯めた防火水槽を使おうとした。
しかし、道路を塞ぐがれきが行く手を阻み近づくことができない。
断水でも使えるはずの防火水槽が使えないのは誤算だった。
川端さんは、場所を火元の西側に移動し、川の水を使おうとしたが、やはり川の水はほとんど流れておらず、消火活動をすることはできなかった。(地図3の場所)
結局、初期に放水できたのは、最初に駆けつけた消防車の1台だけで、それもわずかな川の水しか使えず十分ではなかった。
初期消火の機会を逃すと、火の勢いは増していく。
輪島市では地震発生直後に1メートル20センチ以上の津波が観測されている。
地震発生後から大津波警報や津波警報が出されていたため、海に行って海水を供給することはできなかった。
朝市通りには、古くからの木造の建物が多く、倒壊した建物や家財はより燃えやすくなっていた。
火は道路を覆うがれきを伝いながら、火の粉も風に舞って燃え広がっていった。
川端さんは「このままでは街が大変なことになる」と感じた。
その後、続々と入った消防は、ホースを何十本もつないで、離れた場所にある防火水槽や小学校のプールの水を使って放水した。
しかし、火はすでに街全体を飲み込むように広がっていて、水の力は及ばなかった。
消防団長 川端卓さん
「消しようがなかったんです。もうこれはダメだなと思いました。火の粉が頭の上を越えて向かい側の建物の屋根のほうに飛んでいくのがずっと見えていました。力不足でした」
津波警報が注意報に切り替わった翌2日の未明。
消防は海水をくみ上げて消火を始めた。
海から大量に供給された水で、ようやく火の勢いを食い止めることができた。
そして午前7時半、朝市通りの火災は鎮圧したが、辺り一帯の建物は焼け落ち、かつての賑やかな町並みはなくなっていた。
専門家「防火水槽 使えなかったことを教訓に」
今回の火災を専門家はどう受け止めているのか。
消防行政に詳しい東京理科大学の小林恭一教授はこう話す。「阪神・淡路大震災では、消火栓が断水で使用できず火災が広がった教訓から、断水が起きても利用できる防火水槽の整備が進められた。しかし今回、その防火水槽が使用できなかったことを教訓にしなければならない。防火水槽の取水口を離れた場所にも複数設けて、1か所に障害物があっても他の所を使える対策をとるべきだ。
木造家屋密集地が全国各地にあって、地震で火災が起きると、消防隊が活動できない場合があるので、木造家屋の不燃率を上げていくことも継続的にやっていかなければならない」
さらに、大津波警報や津波警報が出されていた中、浸水想定区域で消火活動を強いられたことについて、小林教授は「今回は津波が火災現場に到達しなかったが、津波が来ていれば多くの殉職者が出たおそれもある」として、国が消火活動の安全に対する明確な基準や制度を示すべきだと指摘している。
さまざまな想定外が重なり、被害が広がった輪島市の朝市通りでの火災。
想定外を減らし、被害を拡大させないための取り組みを進めなければならない。
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