趁还记得再写一些流水账(没有archive真的挺遗憾的)
这次的团队更新在ins的リハ合影上的演出家金谷かほり做过的アーティスト演出有B'z和倉木麻衣,但是主要她还是做テーマパークパレード的,所以想象的是華やか但由于经费不足显得捉襟见肘的舞台,但做出来完全不是这样
整个演出的编排在流程上很简洁,基本上是一个主题的セトリ(3-4首歌)穿插1个スクリーン映像或者vlog然后衔接下一个,M01「誰がその鐘を鳴らすのか」梨子边念白边走向舞台中间(打的跟随光)直到念白完毕才能完全看清脸,觉得很符合这首歌的气质。虽然因为太紧张了吧声音有点飘,到副歌就完全好了。轻咬少女和孤独吉他的选曲也太神了!唯一美中不足的是这个衣服虽然很帅(甚至可以说也挺男役)但是下摆太长导致跳孤独吉他的时候太邪魔,动作有点被收住了。
スクリーン映像1大概是说她坐在乐屋化妆(就是这个白衣造型)然后看到镜子忽然发生异变,出现另一个自己,犹豫把手伸过去的一瞬间戛然而止。(虽然用了很多花瓣和柔光特效但是仍然挺土的算了忍忍吧。)这时候台上出现穿黑色丝绸衬衣的梨子和藏在身后一步步走来的anju(图3图4)anju红衣红唇衬得她皮肤更雪白了!两个人先跳了一段duet然后镜像舞蹈表现镜中世界,然后音乐切进M05「恋は災難」。这一段的anju真是妩媚艳丽,美得有很强的压迫感(这里的编舞也完全更改成斗舞式duet,很好看)
M06「ごめん愛せないんだ」你梨姐一战成名之作,比起3年前(当社比)声音明显变厚了高音上去的也非常自然,这里原来的振付就很帅了但是相手役基本上没有任何动作,这次改成了现代舞的两个人共同表现歌词感情,虽然把我最喜欢的「僕の薬指には、違う彼女がいる」的手指合拢打开的动作完全改掉了,但是因为两个人共同酝酿的虐恋气氛实在是很牛(外我看来两位舞上手对感情的表现理解是比较相似的,这也是这个舞台好看的一个很重要的原因),稍微有点被BE美到了。
M07是吉本坂46的「君の唇を離さない」我很喜欢这句歌词「長い髪を雫が滑る どうして傘 開かないのか? 君はきっと ずぶ濡れを選んで 覚悟を決めたんだろう」anju一个快要摔倒的半蹲身梨子要去扶她然后她轻巧转开的那个动作,anju不愧是搞体操的,确实是身段柔软轻盈能做掌上舞,好高难度的动作就这一眨眼之间……
这里两个人的切ない恋本来是可以更好看的但是你梨子好似不解风情除了必要动作以外基本上不触碰到anju的身体也不太与她对视,比起没能在一起的遗憾更像是分手三年爱已经渐渐消失了……
这次的团队更新在ins的リハ合影上的演出家金谷かほり做过的アーティスト演出有B'z和倉木麻衣,但是主要她还是做テーマパークパレード的,所以想象的是華やか但由于经费不足显得捉襟见肘的舞台,但做出来完全不是这样
整个演出的编排在流程上很简洁,基本上是一个主题的セトリ(3-4首歌)穿插1个スクリーン映像或者vlog然后衔接下一个,M01「誰がその鐘を鳴らすのか」梨子边念白边走向舞台中间(打的跟随光)直到念白完毕才能完全看清脸,觉得很符合这首歌的气质。虽然因为太紧张了吧声音有点飘,到副歌就完全好了。轻咬少女和孤独吉他的选曲也太神了!唯一美中不足的是这个衣服虽然很帅(甚至可以说也挺男役)但是下摆太长导致跳孤独吉他的时候太邪魔,动作有点被收住了。
スクリーン映像1大概是说她坐在乐屋化妆(就是这个白衣造型)然后看到镜子忽然发生异变,出现另一个自己,犹豫把手伸过去的一瞬间戛然而止。(虽然用了很多花瓣和柔光特效但是仍然挺土的算了忍忍吧。)这时候台上出现穿黑色丝绸衬衣的梨子和藏在身后一步步走来的anju(图3图4)anju红衣红唇衬得她皮肤更雪白了!两个人先跳了一段duet然后镜像舞蹈表现镜中世界,然后音乐切进M05「恋は災難」。这一段的anju真是妩媚艳丽,美得有很强的压迫感(这里的编舞也完全更改成斗舞式duet,很好看)
M06「ごめん愛せないんだ」你梨姐一战成名之作,比起3年前(当社比)声音明显变厚了高音上去的也非常自然,这里原来的振付就很帅了但是相手役基本上没有任何动作,这次改成了现代舞的两个人共同表现歌词感情,虽然把我最喜欢的「僕の薬指には、違う彼女がいる」的手指合拢打开的动作完全改掉了,但是因为两个人共同酝酿的虐恋气氛实在是很牛(外我看来两位舞上手对感情的表现理解是比较相似的,这也是这个舞台好看的一个很重要的原因),稍微有点被BE美到了。
M07是吉本坂46的「君の唇を離さない」我很喜欢这句歌词「長い髪を雫が滑る どうして傘 開かないのか? 君はきっと ずぶ濡れを選んで 覚悟を決めたんだろう」anju一个快要摔倒的半蹲身梨子要去扶她然后她轻巧转开的那个动作,anju不愧是搞体操的,确实是身段柔软轻盈能做掌上舞,好高难度的动作就这一眨眼之间……
这里两个人的切ない恋本来是可以更好看的但是你梨子好似不解风情除了必要动作以外基本上不触碰到anju的身体也不太与她对视,比起没能在一起的遗憾更像是分手三年爱已经渐渐消失了……
和staff san 一起聊天的奏多
「スタッフさんからも愛されているんだなって」[抱一抱]
本郷奏多は「資産」の大切さ熱弁『アイのない恋人たち』
1月14日制作発表会見
また、現場での“愛”されキャラを問われると、本郷は「どう考えても前田君です」と。「福士君もすてきな現場の雰囲気作りをしてくれて、みんな仲良くやっているのですが、いつも話題に上がる人物といえば前田君(笑)。先ほど控えている時も女性陣が“歌が聞こえてきた”と話していて、なんと前田君が自分の控室でみんなの控室に聞こえるくらい大きな声で歌を歌っていたらしいんです(笑)」とエピソードを明かす。
いっぽう、深川はそんな「本郷」の名を挙げ、「男性陣3人でファミレスにいるシーンが登場するのですが、スタッフさんが“あんなに楽しそうにいっぱいしゃべってる本郷さん初めて見た”とうれしそうにお話されていて、スタッフさんからも愛されているんだなって」と。これに対し、本郷は「福士君も前田君も昔から知っている仲で、めっちゃ楽しくなってしまってみんなで盛り上がっていたら、スタッフさんから“本番やりたいんですけど…”というのを5回くらい言われてしまいました」とニヤリ。
続けては、それぞれが“愛”してやまないものをフリップに記入して発表していくことに。
いっぽう、本郷からは「資産」という回答が。「この現代社会、ちょっとしたことがあったらこの仕事を続けていけなくなっちゃうじゃないですか。もう怖いですよ…。でも、そんな時でも助けてくれるのが資産なんです。何かあれば人は離れていき、仕事も失ってしまいますが、これまで自分が構築してきた資産だけは裏切らないので」と熱弁。
「スタッフさんからも愛されているんだなって」[抱一抱]
本郷奏多は「資産」の大切さ熱弁『アイのない恋人たち』
1月14日制作発表会見
また、現場での“愛”されキャラを問われると、本郷は「どう考えても前田君です」と。「福士君もすてきな現場の雰囲気作りをしてくれて、みんな仲良くやっているのですが、いつも話題に上がる人物といえば前田君(笑)。先ほど控えている時も女性陣が“歌が聞こえてきた”と話していて、なんと前田君が自分の控室でみんなの控室に聞こえるくらい大きな声で歌を歌っていたらしいんです(笑)」とエピソードを明かす。
いっぽう、深川はそんな「本郷」の名を挙げ、「男性陣3人でファミレスにいるシーンが登場するのですが、スタッフさんが“あんなに楽しそうにいっぱいしゃべってる本郷さん初めて見た”とうれしそうにお話されていて、スタッフさんからも愛されているんだなって」と。これに対し、本郷は「福士君も前田君も昔から知っている仲で、めっちゃ楽しくなってしまってみんなで盛り上がっていたら、スタッフさんから“本番やりたいんですけど…”というのを5回くらい言われてしまいました」とニヤリ。
続けては、それぞれが“愛”してやまないものをフリップに記入して発表していくことに。
いっぽう、本郷からは「資産」という回答が。「この現代社会、ちょっとしたことがあったらこの仕事を続けていけなくなっちゃうじゃないですか。もう怖いですよ…。でも、そんな時でも助けてくれるのが資産なんです。何かあれば人は離れていき、仕事も失ってしまいますが、これまで自分が構築してきた資産だけは裏切らないので」と熱弁。
トルイ
生涯
チンギス・カンの治世
『元朝秘史』には、幼少期にチンギス・カンによって滅ぼされたタタル部の残党に襲われたが、ボロクルの妻アルタニと、ジェルメとジェデイによって救われたという逸話が伝えられている。1206年にモンゴル帝国が建国された後、チンギス・カンは自らの諸子諸弟に民を分け与えたが、「末子」のトルイのみはチンギス・カン自らが率いる民を相続することが予定されていた。ただし、『元朝秘史』の記述などからジェデイ、バラらの率いる千人隊がチンギス・カンの生前から分与されていたようである。賈シラの伝記などから、トルイの領地はハンガイ・ダバー(杭海荅班)すなわちハンガイ山脈地方にあったと考えられている。
1212年にはじまる第一次金遠征ではチンギス・カンが自ら指揮する中軍を率いて常に父の傍近くに仕え、河北から山東にかけての黄河河畔にいたる地域の征服で数々の勝利を収めた。特に、野狐嶺の戦い後の1212年にチグゥ・キュレゲンとともに要衝である徳興府周辺の諸城を平定したことは、『元朝秘史』をはじめ諸史料で特筆されている。
1219年にホラズム・シャー朝遠征(チンギス・カンの西征)が開始されると、再びチンギス・カンに従って、ここでも中軍を率いてブハーラー、サマルカンドとその周辺などマー・ワラー・アンナフル地方の諸都市の征服で指揮をとった。1220年秋にはホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドの追撃にイラン方面へ転戦したジェベ、スブタイらの後詰めとして、トルイはアムダリヤ川を渡ってホラーサーン地方へ派遣されている。しかし、この地方の主要都市ニサ、メルヴやニーシャープール、ヘラートなどを征服しているが、先鋒部隊をふくめて幕僚に戦死者が出るなど激しい抵抗に会い、また降服勧告を促す使者が殺害され、都市陥落の際には殲滅戦になるなど苦戦を強いられた。報復として投降した住民を虐殺してもいる。翌1221年にはアラーウッディーンの三男でガズナ地方の領主ジャラールッディーンが大軍を率いて挙兵し、チンギス・カンがジョチ、チャガタイ、オゴデイらを引連れてこれをアフガニスタンとインダス河西岸で迎え撃ったときには、ホラーサーンに留まってチンギス・カン本軍の後詰めを守った。
1225年暮れにはじまる西夏への遠征(第5次西夏遠征)で、翌1226年2月にはオゴデイとともに父に随行して西夏領内に侵攻している。トルイはこれらの諸戦役で父とともに各地を転戦して軍功を挙げ、その武名を轟かせた。
監国期
1227年、チンギス・カンが没すると、父の所有していた家産と直轄ウルスの101個千人隊に相当する部民、軍隊のすべてを相続し、親族中で飛びぬけた財力と軍事力を獲得、後継のカアン選出まで帝国の政務を代行する監国の地位についた。トルイ監国期の政策としては、チンギス・カン死後に反モンゴル運動を始めた地域へのタンマチ派遣が知られる。タンマチは後にモンゴル帝国の国境地帯に広く派遣されたが、その中でもイランに派遣されたチョルマグンと遼東に派遣されたサリクタイはトルイ監国期に派遣を開始されている[9]。そしてチンギス・カンの死から2年後、後継のカアンの選出にあたっては自身の即位を固辞し、父チンギス・カンが生前に後継者に定める意向を示していたという兄オゴデイを第2代カアンに推し、即位させた。
諸史料によると、トルイは1229年春に帝国の諸王・功臣にクリルタイを開くことを布告し、予定通り同年9月には新帝を決めるクリルタイが開催された。『世界征服者史』によると、最初に三日三晩にわたる大宴会が開かれた後、右翼諸王の代表であるチャガタイと、左翼諸王の代表であるテムゲ・オッチギンがオゴデイの手を取って玉座に導き、中軍を代表するトゥルイが祝杯を捧げるという儀式を経てオゴデイが即位したとされる[12]。
なお、かつては『元朝秘史』の記述に基づいてトルイは4個千人隊のウルスしか所有しない兄オゴデイに自身のウルスの大部分の指揮権を譲ったと考えられていたが、現在ではこれは誤りでトルイはオゴデイの即位後も帝国内で最大の勢力を有したままであったと考えられている。
オゴデイ・カアンの治世
オゴデイが即位すると、即位後最初の大事業として第二次金朝遠征(モンゴル帝国の金朝征服)が実施された。この遠征においてトルイは一将軍として右翼軍を率いたが、これは帝国で最大の勢力を有するトルイと配下の諸将を引き離すオゴデイの意図があったと考えられている。トルイは右翼軍の司令官として金領西部の山間部に侵攻し、1232年に完顔陳和尚率いる金軍を三峰山の戦いで破って金の主力を壊滅させる戦功をあげた。
しかし、オゴデイの本軍と合流して帰還する途上、モンゴル高原に至ったところで急死した[15]。深酒のためと言われるが、『集史』、『元史』といったモンゴル時代の基本史料はいずれも「病に罹ったオゴデイの身代わりとなるために、呪いのかかった酒を飲み干して死んだ」とする逸話を伝える。『集史』および『元史』の原史料である『元朝実録』はいずれもトルイの子孫の政権で編まれた史料で、なおかつほぼ同時期に編纂された「国家編纂物」であり、「政権運営に大過なかったオゴデイを明確に否定はしないが、トルイ家こそが正統な支配者であると強調する」トルイ一族の見解が反映されたものと指摘されている。トルイの急死を、弟の人望と功績を恐れた兄オゴデイによる謀殺とみる説もある。
トルイの莫大な遺産はケレイト部族出身の妃ソルコクタニ・ベキを経て、両人の息子モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケの4子に継承され、のちの大元、イルハン朝の基盤となった。
生涯
チンギス・カンの治世
『元朝秘史』には、幼少期にチンギス・カンによって滅ぼされたタタル部の残党に襲われたが、ボロクルの妻アルタニと、ジェルメとジェデイによって救われたという逸話が伝えられている。1206年にモンゴル帝国が建国された後、チンギス・カンは自らの諸子諸弟に民を分け与えたが、「末子」のトルイのみはチンギス・カン自らが率いる民を相続することが予定されていた。ただし、『元朝秘史』の記述などからジェデイ、バラらの率いる千人隊がチンギス・カンの生前から分与されていたようである。賈シラの伝記などから、トルイの領地はハンガイ・ダバー(杭海荅班)すなわちハンガイ山脈地方にあったと考えられている。
1212年にはじまる第一次金遠征ではチンギス・カンが自ら指揮する中軍を率いて常に父の傍近くに仕え、河北から山東にかけての黄河河畔にいたる地域の征服で数々の勝利を収めた。特に、野狐嶺の戦い後の1212年にチグゥ・キュレゲンとともに要衝である徳興府周辺の諸城を平定したことは、『元朝秘史』をはじめ諸史料で特筆されている。
1219年にホラズム・シャー朝遠征(チンギス・カンの西征)が開始されると、再びチンギス・カンに従って、ここでも中軍を率いてブハーラー、サマルカンドとその周辺などマー・ワラー・アンナフル地方の諸都市の征服で指揮をとった。1220年秋にはホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドの追撃にイラン方面へ転戦したジェベ、スブタイらの後詰めとして、トルイはアムダリヤ川を渡ってホラーサーン地方へ派遣されている。しかし、この地方の主要都市ニサ、メルヴやニーシャープール、ヘラートなどを征服しているが、先鋒部隊をふくめて幕僚に戦死者が出るなど激しい抵抗に会い、また降服勧告を促す使者が殺害され、都市陥落の際には殲滅戦になるなど苦戦を強いられた。報復として投降した住民を虐殺してもいる。翌1221年にはアラーウッディーンの三男でガズナ地方の領主ジャラールッディーンが大軍を率いて挙兵し、チンギス・カンがジョチ、チャガタイ、オゴデイらを引連れてこれをアフガニスタンとインダス河西岸で迎え撃ったときには、ホラーサーンに留まってチンギス・カン本軍の後詰めを守った。
1225年暮れにはじまる西夏への遠征(第5次西夏遠征)で、翌1226年2月にはオゴデイとともに父に随行して西夏領内に侵攻している。トルイはこれらの諸戦役で父とともに各地を転戦して軍功を挙げ、その武名を轟かせた。
監国期
1227年、チンギス・カンが没すると、父の所有していた家産と直轄ウルスの101個千人隊に相当する部民、軍隊のすべてを相続し、親族中で飛びぬけた財力と軍事力を獲得、後継のカアン選出まで帝国の政務を代行する監国の地位についた。トルイ監国期の政策としては、チンギス・カン死後に反モンゴル運動を始めた地域へのタンマチ派遣が知られる。タンマチは後にモンゴル帝国の国境地帯に広く派遣されたが、その中でもイランに派遣されたチョルマグンと遼東に派遣されたサリクタイはトルイ監国期に派遣を開始されている[9]。そしてチンギス・カンの死から2年後、後継のカアンの選出にあたっては自身の即位を固辞し、父チンギス・カンが生前に後継者に定める意向を示していたという兄オゴデイを第2代カアンに推し、即位させた。
諸史料によると、トルイは1229年春に帝国の諸王・功臣にクリルタイを開くことを布告し、予定通り同年9月には新帝を決めるクリルタイが開催された。『世界征服者史』によると、最初に三日三晩にわたる大宴会が開かれた後、右翼諸王の代表であるチャガタイと、左翼諸王の代表であるテムゲ・オッチギンがオゴデイの手を取って玉座に導き、中軍を代表するトゥルイが祝杯を捧げるという儀式を経てオゴデイが即位したとされる[12]。
なお、かつては『元朝秘史』の記述に基づいてトルイは4個千人隊のウルスしか所有しない兄オゴデイに自身のウルスの大部分の指揮権を譲ったと考えられていたが、現在ではこれは誤りでトルイはオゴデイの即位後も帝国内で最大の勢力を有したままであったと考えられている。
オゴデイ・カアンの治世
オゴデイが即位すると、即位後最初の大事業として第二次金朝遠征(モンゴル帝国の金朝征服)が実施された。この遠征においてトルイは一将軍として右翼軍を率いたが、これは帝国で最大の勢力を有するトルイと配下の諸将を引き離すオゴデイの意図があったと考えられている。トルイは右翼軍の司令官として金領西部の山間部に侵攻し、1232年に完顔陳和尚率いる金軍を三峰山の戦いで破って金の主力を壊滅させる戦功をあげた。
しかし、オゴデイの本軍と合流して帰還する途上、モンゴル高原に至ったところで急死した[15]。深酒のためと言われるが、『集史』、『元史』といったモンゴル時代の基本史料はいずれも「病に罹ったオゴデイの身代わりとなるために、呪いのかかった酒を飲み干して死んだ」とする逸話を伝える。『集史』および『元史』の原史料である『元朝実録』はいずれもトルイの子孫の政権で編まれた史料で、なおかつほぼ同時期に編纂された「国家編纂物」であり、「政権運営に大過なかったオゴデイを明確に否定はしないが、トルイ家こそが正統な支配者であると強調する」トルイ一族の見解が反映されたものと指摘されている。トルイの急死を、弟の人望と功績を恐れた兄オゴデイによる謀殺とみる説もある。
トルイの莫大な遺産はケレイト部族出身の妃ソルコクタニ・ベキを経て、両人の息子モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケの4子に継承され、のちの大元、イルハン朝の基盤となった。
✋热门推荐