出雲阿国
「出雲阿国」(いずものおくに)は安土桃山時代から江戸時代への過渡期に各地を巡業し、「阿国歌舞伎」(おくにかぶき)という踊りを広めた女性です。「出雲大社」(いずもたいしゃ:島根県出雲市)の巫女であったと伝えられますが、京都に来るまでどのような人生を送っていたかは謎につつまれています。しかし、出雲阿国の踊りが江戸時代初期の人々に与えたインパクトは絶大で、この踊りはすぐに全国に広まり、やがて日本が世界に誇る伝統芸能「歌舞伎」(かぶき)を生み出す原点になりました。
出雲阿国とは
「見せる」踊りの誕生
戦乱が続いた室町時代後期、武士、農民がお盆にみんなで楽しんだ「風流」(ふりゅう)という踊りがありました。もともとは日本全国へ広がった大戦乱「応仁の乱」(おうにんのらん)で亡くなった人の霊魂を慰めるために行われた仏教儀式でしたが、やがて規模が大きくなり、お盆に着飾った男女が歌を歌いながら踊るというお祭りへと発展します。
しかしこれはあくまでも大衆が参加し、自分で「踊る」ためのものでした。一方、1580年代に数名の幼い子どもが、歌に合わせて踊る「ややこ踊り」という芸能が流行。これは、日本で初めて誕生した「見せる」ための芸能でした。
今日、新潟県柏崎市に「綾子舞」(あやこまい)という伝統芸能がありますが、その特徴などから見て、これはややこ踊りが今日に伝えられたものと考えられています。記録では、1600年(慶長5年)に「雲州のヤヤコ跳」(うんしゅうのややこおどり)という一座が、宮廷でややこ踊りを披露。そして、この一座の踊り手として記されていた「クニ」こそが、出雲阿国だったのです。
常識外れの装い
1603年(慶長8年)になると、出雲阿国の一座は、京都の四条河原に仮設の舞台を作り、これまで誰も見たことがない踊りを披露します。
特に変わっていたのは、出雲阿国の装い。女性でありながら、男装して長い日本刀を肩に担ぎ、首にはクルス(十字架)のネックレスをかけていました。出雲大社の巫女であるはずなのに、キリスト教の十字架をぶらさげ、死者の魂を慰める仏教儀式の踊りを披露する。
これまで狂言師(きょうげんし:日本古来の芸能である能楽で、狂言を演じた成人男性の俳優)が女装した例はありましたが、女性が男装するというのは極めて異例のことでした。この突飛な演技が、都の人々の心をわしづかみにしたのです。
常識外れの演出
さらにユニークなのは、出雲阿国の演出。男装の出雲阿国が「猿若」(さるわか:道化役の若者)を連れて町の茶屋を訪れると、茶屋の娘がなよなよとした様子で出迎えます。しかし、この茶屋の娘、実は体格の良い男性が女装した姿。
男装した出雲阿国と女装した男は酒を酌(く)み交わすと、一緒に小唄を歌い、官能的な振り付けの踊りを披露。その間に猿若は2人の隣で独り芝居をしたり、獅子踊りをしたりと、即興で舞台を盛り上げました。これまでの常識では考えられない演出に、当時の人々は大喜び。
すぐにこれを真似て同様の舞台を見せる一座が各地に生まれ、クニを名乗る踊り子が何名も出現。こうして京都から一気に広がった踊りは「阿国歌舞伎」と呼ばれました。
傾きから歌舞伎へ
戦国京都のアンチヒーロー・傾奇者
阿国歌舞伎の「かぶき」とは、「傾奇者」(かぶきもの)から生まれた言葉。この頃、京都には傾奇者と呼ばれる荒くれ者達が出没していました。
彼らは社会からはみ出した横着者で、徒党を組んで夜な夜な悪事を働いたのです。しかも、変わっていたのは彼らの服装。
女性のような豪華で華やかな模様の衣装を身にまとい、水晶の数珠や十字架のネックレスを首にかけ、長い日本刀を落とし差し(日本刀の柄が胸に付くほど縦にして帯に差す)にして、街中をのし歩いたと言われます。
しかし京都の人々は、傾奇者に対してある種の憧れを持ち、アンチヒーロー(悪人であるのに、多くの人から憧れを持たれる存在)でもありました。
人々のアイドルになった出雲阿国
そして当時、彼らのように、従来の常識的な価値観に反抗し、異端のふるまいをすることを「傾く」(かぶく)と言いました。傾奇者とはつまり「傾く者」という意味。そこに出雲阿国が登場し、傾奇者の装いを真似たうえに、女性と男性が倒錯する(正常とは反対の行動)という、凝った演出でたちまち京都の人々のアイドルになったのです。
そして「かぶき」に「歌」(うた)・「舞」(まい)・「伎」(うごき)を見せるという漢字が当てられ、「歌舞伎」と称されるように。今や日本を代表する伝統芸能である歌舞伎が、実は約400年前に京都の河原で演じられた奇妙な踊りから始まったと考えると、歴史の奥深さを感じます。
「出雲阿国」(いずものおくに)は安土桃山時代から江戸時代への過渡期に各地を巡業し、「阿国歌舞伎」(おくにかぶき)という踊りを広めた女性です。「出雲大社」(いずもたいしゃ:島根県出雲市)の巫女であったと伝えられますが、京都に来るまでどのような人生を送っていたかは謎につつまれています。しかし、出雲阿国の踊りが江戸時代初期の人々に与えたインパクトは絶大で、この踊りはすぐに全国に広まり、やがて日本が世界に誇る伝統芸能「歌舞伎」(かぶき)を生み出す原点になりました。
出雲阿国とは
「見せる」踊りの誕生
戦乱が続いた室町時代後期、武士、農民がお盆にみんなで楽しんだ「風流」(ふりゅう)という踊りがありました。もともとは日本全国へ広がった大戦乱「応仁の乱」(おうにんのらん)で亡くなった人の霊魂を慰めるために行われた仏教儀式でしたが、やがて規模が大きくなり、お盆に着飾った男女が歌を歌いながら踊るというお祭りへと発展します。
しかしこれはあくまでも大衆が参加し、自分で「踊る」ためのものでした。一方、1580年代に数名の幼い子どもが、歌に合わせて踊る「ややこ踊り」という芸能が流行。これは、日本で初めて誕生した「見せる」ための芸能でした。
今日、新潟県柏崎市に「綾子舞」(あやこまい)という伝統芸能がありますが、その特徴などから見て、これはややこ踊りが今日に伝えられたものと考えられています。記録では、1600年(慶長5年)に「雲州のヤヤコ跳」(うんしゅうのややこおどり)という一座が、宮廷でややこ踊りを披露。そして、この一座の踊り手として記されていた「クニ」こそが、出雲阿国だったのです。
常識外れの装い
1603年(慶長8年)になると、出雲阿国の一座は、京都の四条河原に仮設の舞台を作り、これまで誰も見たことがない踊りを披露します。
特に変わっていたのは、出雲阿国の装い。女性でありながら、男装して長い日本刀を肩に担ぎ、首にはクルス(十字架)のネックレスをかけていました。出雲大社の巫女であるはずなのに、キリスト教の十字架をぶらさげ、死者の魂を慰める仏教儀式の踊りを披露する。
これまで狂言師(きょうげんし:日本古来の芸能である能楽で、狂言を演じた成人男性の俳優)が女装した例はありましたが、女性が男装するというのは極めて異例のことでした。この突飛な演技が、都の人々の心をわしづかみにしたのです。
常識外れの演出
さらにユニークなのは、出雲阿国の演出。男装の出雲阿国が「猿若」(さるわか:道化役の若者)を連れて町の茶屋を訪れると、茶屋の娘がなよなよとした様子で出迎えます。しかし、この茶屋の娘、実は体格の良い男性が女装した姿。
男装した出雲阿国と女装した男は酒を酌(く)み交わすと、一緒に小唄を歌い、官能的な振り付けの踊りを披露。その間に猿若は2人の隣で独り芝居をしたり、獅子踊りをしたりと、即興で舞台を盛り上げました。これまでの常識では考えられない演出に、当時の人々は大喜び。
すぐにこれを真似て同様の舞台を見せる一座が各地に生まれ、クニを名乗る踊り子が何名も出現。こうして京都から一気に広がった踊りは「阿国歌舞伎」と呼ばれました。
傾きから歌舞伎へ
戦国京都のアンチヒーロー・傾奇者
阿国歌舞伎の「かぶき」とは、「傾奇者」(かぶきもの)から生まれた言葉。この頃、京都には傾奇者と呼ばれる荒くれ者達が出没していました。
彼らは社会からはみ出した横着者で、徒党を組んで夜な夜な悪事を働いたのです。しかも、変わっていたのは彼らの服装。
女性のような豪華で華やかな模様の衣装を身にまとい、水晶の数珠や十字架のネックレスを首にかけ、長い日本刀を落とし差し(日本刀の柄が胸に付くほど縦にして帯に差す)にして、街中をのし歩いたと言われます。
しかし京都の人々は、傾奇者に対してある種の憧れを持ち、アンチヒーロー(悪人であるのに、多くの人から憧れを持たれる存在)でもありました。
人々のアイドルになった出雲阿国
そして当時、彼らのように、従来の常識的な価値観に反抗し、異端のふるまいをすることを「傾く」(かぶく)と言いました。傾奇者とはつまり「傾く者」という意味。そこに出雲阿国が登場し、傾奇者の装いを真似たうえに、女性と男性が倒錯する(正常とは反対の行動)という、凝った演出でたちまち京都の人々のアイドルになったのです。
そして「かぶき」に「歌」(うた)・「舞」(まい)・「伎」(うごき)を見せるという漢字が当てられ、「歌舞伎」と称されるように。今や日本を代表する伝統芸能である歌舞伎が、実は約400年前に京都の河原で演じられた奇妙な踊りから始まったと考えると、歴史の奥深さを感じます。
“酒乱”に“放火”…芹沢鴨、傍若無人な振る舞いの果てのあまりに無残な死にざま
幕末、京都の治安を守る特別警察として活躍した新選組。鉄の結束を誇る組織として名を馳せたが、その一方で規律を乱す不良隊士や不満分子は容赦なく粛清していった。その舞台裏を追う。
【狼藉の末に捕縛も】芹沢鴨が暗殺されるまで
芹沢鴨が30数人の隊士を率いて、生糸商・大和屋庄兵衛方を襲い、大小7つの土蔵に火を放ったのは、文久三年(1863)八月十二日の夜から翌日の夜にかけてのことだった。
江戸時代、放火は重罪で、公儀の御用といえども火の取り扱いには万全の注意が求められていた。大和屋は御所の中立売御門から西へ800mほどの地点にあり、この暴挙に朝廷は激怒した。
これを受けて会津藩は近藤勇を呼び出し、芹沢の「所(処)置」(『新撰組始末記』)を命じている。処置とは排除であり、つまりは殺害である。これまでも酒乱とされる芹沢の傍若無人な行動に手を焼いていた近藤に、これを断る理由はなかった。
その後、八月十八日の政変、それにともなう残務処理で実行は遅れていたが、九月十六日に新選組が島原の角屋で総会を開き、ついに決行されることとなる。総会が終わり、一座に酒が振る舞われると、午後6時頃に芹沢は席を立った。屯所としていた壬生の八木邸で飲みなおすのだという。これに同行したのが芹沢の身内というべき平山五郎と平間重助で、土方歳三も彼らに従った。平山と平間は、それぞれ芸妓を連れており、芹沢は愛妾のお梅を八木邸に呼んでいた。
そこで彼らは盃を交わすのだが、土方が同行した目的は、芹沢らを酔いつぶすことにあった。やがて酔いが回った芹沢は酒宴を切り上げ、式台(玄関の上がり口)の北にある八畳間の一室に屏風を仕立てて区切りとし、その北側の床に芹沢とお梅、南側に平山と相方が入った。平間と相方は式台の西隣にある四畳半を寝所とした。
土方は彼らが寝入ったのを確認すると屯所の前川邸に戻り、もう一度、様子をうかがいにやってきた。そして、それから20分ばかりもしたときに、式台から抜刀した4人の男が飛び込んでくる。八木家の三男の為三郎は、刺客には確かに沖田総司と原田左之助がいて、山南敬助もいたようだという、現場を目撃した母親の話を『新選組遺聞』に語り遺しているが、土方もこれに加わっていた。
襲撃を受けて傷を負った芹沢は素早く布団を抜け出し、廊下を伝って隣の部屋に逃げ込んだ。しかし、入口でつまずき、倒れたところを切り刻まれて絶命する。芹沢と寝ていたお梅は首が落ちそうなほどに斬られ、平山の首は落ちていた。平山の相方は襲撃時に厠に立っていたため無事だったと伝わる。
平間らは無傷だった。免許皆伝だった芹沢・平山に対し、平間の腕前は目録であり、平間を生かしておいても復讐される恐れはないとして、殺害の対象から外していたのだろう。
暗殺は長州藩によるものとされた。翌々日、芹沢と平山の葬儀が行われ、壬生村共同墓地に埋葬された。墓碑には「十八日卒」と刻まれているが、この日に埋葬されたのである。
前出の為三郎は、決行日は雨天だったとしていて、市中の公家や商人の日記にも降雨と記録されている。しかし、十八日には降雨の記録はないのである。
命拾いした平間は京都を脱し、明治七年(1874)に郷里の常陸国芹沢村で死亡している。
○監修・文 菊地明(きくち・あきら)/1951年東京都生まれ。幕末史研究家。日本大学芸術学部卒業。主な著書に『新選組 粛清の組織論』(文春新書)、『新選組全史(上・中・下)』(新人物往来社)、『新選組 謎とき88話』(PHP研究所)、『土方歳三日記(上・下巻)』(ちくま学芸文庫)ほか。
※週刊朝日ムック『歴史道Vol.28 新選組興亡史』から
幕末、京都の治安を守る特別警察として活躍した新選組。鉄の結束を誇る組織として名を馳せたが、その一方で規律を乱す不良隊士や不満分子は容赦なく粛清していった。その舞台裏を追う。
【狼藉の末に捕縛も】芹沢鴨が暗殺されるまで
芹沢鴨が30数人の隊士を率いて、生糸商・大和屋庄兵衛方を襲い、大小7つの土蔵に火を放ったのは、文久三年(1863)八月十二日の夜から翌日の夜にかけてのことだった。
江戸時代、放火は重罪で、公儀の御用といえども火の取り扱いには万全の注意が求められていた。大和屋は御所の中立売御門から西へ800mほどの地点にあり、この暴挙に朝廷は激怒した。
これを受けて会津藩は近藤勇を呼び出し、芹沢の「所(処)置」(『新撰組始末記』)を命じている。処置とは排除であり、つまりは殺害である。これまでも酒乱とされる芹沢の傍若無人な行動に手を焼いていた近藤に、これを断る理由はなかった。
その後、八月十八日の政変、それにともなう残務処理で実行は遅れていたが、九月十六日に新選組が島原の角屋で総会を開き、ついに決行されることとなる。総会が終わり、一座に酒が振る舞われると、午後6時頃に芹沢は席を立った。屯所としていた壬生の八木邸で飲みなおすのだという。これに同行したのが芹沢の身内というべき平山五郎と平間重助で、土方歳三も彼らに従った。平山と平間は、それぞれ芸妓を連れており、芹沢は愛妾のお梅を八木邸に呼んでいた。
そこで彼らは盃を交わすのだが、土方が同行した目的は、芹沢らを酔いつぶすことにあった。やがて酔いが回った芹沢は酒宴を切り上げ、式台(玄関の上がり口)の北にある八畳間の一室に屏風を仕立てて区切りとし、その北側の床に芹沢とお梅、南側に平山と相方が入った。平間と相方は式台の西隣にある四畳半を寝所とした。
土方は彼らが寝入ったのを確認すると屯所の前川邸に戻り、もう一度、様子をうかがいにやってきた。そして、それから20分ばかりもしたときに、式台から抜刀した4人の男が飛び込んでくる。八木家の三男の為三郎は、刺客には確かに沖田総司と原田左之助がいて、山南敬助もいたようだという、現場を目撃した母親の話を『新選組遺聞』に語り遺しているが、土方もこれに加わっていた。
襲撃を受けて傷を負った芹沢は素早く布団を抜け出し、廊下を伝って隣の部屋に逃げ込んだ。しかし、入口でつまずき、倒れたところを切り刻まれて絶命する。芹沢と寝ていたお梅は首が落ちそうなほどに斬られ、平山の首は落ちていた。平山の相方は襲撃時に厠に立っていたため無事だったと伝わる。
平間らは無傷だった。免許皆伝だった芹沢・平山に対し、平間の腕前は目録であり、平間を生かしておいても復讐される恐れはないとして、殺害の対象から外していたのだろう。
暗殺は長州藩によるものとされた。翌々日、芹沢と平山の葬儀が行われ、壬生村共同墓地に埋葬された。墓碑には「十八日卒」と刻まれているが、この日に埋葬されたのである。
前出の為三郎は、決行日は雨天だったとしていて、市中の公家や商人の日記にも降雨と記録されている。しかし、十八日には降雨の記録はないのである。
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○監修・文 菊地明(きくち・あきら)/1951年東京都生まれ。幕末史研究家。日本大学芸術学部卒業。主な著書に『新選組 粛清の組織論』(文春新書)、『新選組全史(上・中・下)』(新人物往来社)、『新選組 謎とき88話』(PHP研究所)、『土方歳三日記(上・下巻)』(ちくま学芸文庫)ほか。
※週刊朝日ムック『歴史道Vol.28 新選組興亡史』から
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第2話は4/25(火)夜10時から
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