「どうする家康」ネット話題“空城の計”作劇の舞台裏“罠を警戒”は山県→勝頼、信玄“浜松城スルー”の訳
嵐の松本潤(39)が主演を務めるNHK大河ドラマ「どうする家康」(日曜後8・00)は14日、第18回が放送され、主人公・徳川家康が武田信玄に惨敗した「三方ヶ原の戦い」(元亀3年、1573年)の“真実”が描かれた。家康の人生最大のピンチを壮大かつ丹念に紡いだドラマ前半のクライマックスの一つ。制作統括の磯智明チーフ・プロデューサー(CP)に作劇の舞台裏を聞いた。
【写真】第18話。徳川軍の“奇策”に、武田信玄(阿部寛)は…
<※以下、ネタバレ有>
「リーガル・ハイ」「コンフィデンスマンJP」シリーズなどのヒット作を生み続ける古沢良太氏がオリジナル脚本を手掛ける大河ドラマ62作目。弱小国・三河の主は、いかにして戦国の世を生き抜き、天下統一を成し遂げたのか。令和版にアップデートした新たな家康像を描く。古沢氏は大河脚本初挑戦。松本は大河初主演となる。
「三河一向一揆」「伊賀越え」と並び、家康の“3大危機”に数えられる「三方ヶ原の戦い」は第17回「三方ヶ原合戦」(5月7日)、第18回「真・三方ヶ原合戦」と2週にわたるボリュームで描かれた。 夜、浜松城は武田四郎勝頼(眞栄田郷敦)の部隊に攻め込まれるが、酒井忠次(大森南朋)の機転により徳川軍は難を逃れた。
忠次が石川数正(松重豊)に明かした策は、兵法三十六計の一つ「空城(くうじょう)の計」。「門を開けよ!」(数正)「城門を開け放て!篝火を焚いて息を潜めよ!」(忠次)。勝頼は罠を警戒し、いったん引き返した。
翌朝。穴山信君(田辺誠一)は「軍勢が迫っておるにもかかわらず、敢えて城門を開け放ち、何か罠であるように見せかけ、敵を惑わせる。かの諸葛孔明が採ったとされる奇策でござる」、山県昌景(橋本さとし)は「しかし、本当にやる奴は初めて見た」。武田信玄(阿部寛)は十分に徳川軍を叩いたと、浜松城を見逃し。「わしは時が惜しいのじゃ。1日たりとも無駄にしとうはない」と京へ急いだ。
しかし、武田軍は突如、甲斐へ引き返し始める。出陣前から体の異変に襲われていた信玄だが、馬にもまたがれない状態に陥った…。
放送終了後(14日午後9時)には「空城の計」がツイッターの世界トレンド13位に入るなど、SNS上で反響を呼んだ。
空城の計を行ったのは浜松城に帰還した家康、突入をためらったのは昌景と伝わるが、今作はそれぞれ忠次と勝頼に。磯CPは「果たして、百戦錬磨の山県がだまされたのかというのは疑問だったんですよね。そこで、まだ戦の経験が浅い勝頼なら、というアイデアで古沢さんが書いてくださいました」。そして、信玄は何故、徳川を滅ぼさなかったのか。
「劇中の信玄の台詞にも『それでも、一朝一夕にはいかん』とありますけど、徳川が籠城戦に入れば時間がかかる。その余裕が武田になかったのは、信玄の体調が関係している、というのが研究の歴史主流になっています」。死因は「消化器系の病気」「結核」などの説があるが「信玄が三方ヶ原の前から体調を崩していたという記録は残っていて、自分の余命に気づいていたという説もあります。手堅く、計算高かった信玄が、信長に狙いを定めるこのタイミングでアグレッシブに転じるんですよね。その動機づけが何なのかと考えると、劇中の台詞のように『時が惜しい』と思ったのかもしれません」。次回予告の信玄は「黄泉にて見守る」――。戦国最強の男も病魔には敵わないのか。
嵐の松本潤(39)が主演を務めるNHK大河ドラマ「どうする家康」(日曜後8・00)は14日、第18回が放送され、主人公・徳川家康が武田信玄に惨敗した「三方ヶ原の戦い」(元亀3年、1573年)の“真実”が描かれた。家康の人生最大のピンチを壮大かつ丹念に紡いだドラマ前半のクライマックスの一つ。制作統括の磯智明チーフ・プロデューサー(CP)に作劇の舞台裏を聞いた。
【写真】第18話。徳川軍の“奇策”に、武田信玄(阿部寛)は…
<※以下、ネタバレ有>
「リーガル・ハイ」「コンフィデンスマンJP」シリーズなどのヒット作を生み続ける古沢良太氏がオリジナル脚本を手掛ける大河ドラマ62作目。弱小国・三河の主は、いかにして戦国の世を生き抜き、天下統一を成し遂げたのか。令和版にアップデートした新たな家康像を描く。古沢氏は大河脚本初挑戦。松本は大河初主演となる。
「三河一向一揆」「伊賀越え」と並び、家康の“3大危機”に数えられる「三方ヶ原の戦い」は第17回「三方ヶ原合戦」(5月7日)、第18回「真・三方ヶ原合戦」と2週にわたるボリュームで描かれた。 夜、浜松城は武田四郎勝頼(眞栄田郷敦)の部隊に攻め込まれるが、酒井忠次(大森南朋)の機転により徳川軍は難を逃れた。
忠次が石川数正(松重豊)に明かした策は、兵法三十六計の一つ「空城(くうじょう)の計」。「門を開けよ!」(数正)「城門を開け放て!篝火を焚いて息を潜めよ!」(忠次)。勝頼は罠を警戒し、いったん引き返した。
翌朝。穴山信君(田辺誠一)は「軍勢が迫っておるにもかかわらず、敢えて城門を開け放ち、何か罠であるように見せかけ、敵を惑わせる。かの諸葛孔明が採ったとされる奇策でござる」、山県昌景(橋本さとし)は「しかし、本当にやる奴は初めて見た」。武田信玄(阿部寛)は十分に徳川軍を叩いたと、浜松城を見逃し。「わしは時が惜しいのじゃ。1日たりとも無駄にしとうはない」と京へ急いだ。
しかし、武田軍は突如、甲斐へ引き返し始める。出陣前から体の異変に襲われていた信玄だが、馬にもまたがれない状態に陥った…。
放送終了後(14日午後9時)には「空城の計」がツイッターの世界トレンド13位に入るなど、SNS上で反響を呼んだ。
空城の計を行ったのは浜松城に帰還した家康、突入をためらったのは昌景と伝わるが、今作はそれぞれ忠次と勝頼に。磯CPは「果たして、百戦錬磨の山県がだまされたのかというのは疑問だったんですよね。そこで、まだ戦の経験が浅い勝頼なら、というアイデアで古沢さんが書いてくださいました」。そして、信玄は何故、徳川を滅ぼさなかったのか。
「劇中の信玄の台詞にも『それでも、一朝一夕にはいかん』とありますけど、徳川が籠城戦に入れば時間がかかる。その余裕が武田になかったのは、信玄の体調が関係している、というのが研究の歴史主流になっています」。死因は「消化器系の病気」「結核」などの説があるが「信玄が三方ヶ原の前から体調を崩していたという記録は残っていて、自分の余命に気づいていたという説もあります。手堅く、計算高かった信玄が、信長に狙いを定めるこのタイミングでアグレッシブに転じるんですよね。その動機づけが何なのかと考えると、劇中の台詞のように『時が惜しい』と思ったのかもしれません」。次回予告の信玄は「黄泉にて見守る」――。戦国最強の男も病魔には敵わないのか。
本郷和人 なぜ7人で房総へ逃げのびた源頼朝がたった42日で5万の軍勢を集められたのか? 頼朝はあくまで在地の武士に担ぎあげられた「神輿」だった
松本潤さん演じる徳川家康が話題のNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。天下を統一し、幕府のトップとして武士を率いる「将軍」になる家康の歩みが描かれていますが、「将軍とは言え、強力なリーダーシップを発揮した大物ばかりではない」と話すのが歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生です。たとえば「征夷大将軍」に任命されたことで有名な源頼朝ですが、本郷先生いわく、そもそも彼を担ぎ上げたのはむしろ在地の武士側だったそうで――。
【絵】源頼朝は真鶴を経て海路で安房国(千葉県)へ逃げる。絵は逃走する源頼朝を追う平氏方の武将たち
* * * * * * *
◆源頼朝の挙兵と奇跡の四二日間
十代前半に流人となった源頼朝は、二〇年もの月日を配流地である伊豆で過ごすことになりました。そしてついに治承四(一一八〇)年八月一七日、頼朝は平氏追討の兵を挙げます。
伊豆守目代の山木兼隆を討ち、初戦に勝利するも、大庭景親・伊東祐親らの軍勢に石橋山で敗れ、土肥実平らの助けを受けて、わずか七人で船に乗って房総半島に逃れます。そこで千葉常胤や上総広常ら、父・義朝にかつて従った武士たちを味方につけて再起を図り、鎌倉入りを果たすのです。石橋山の敗戦からわずか四二日後のことでした。
『吾妻鏡』によれば、四二日間のうちに兵の規模は五万人に膨れ上がったとされています。
『吾妻鏡』は鎌倉幕府の執権となった北条氏の命で作成された記録ですから、軍勢の数も幕府側に都合のよいように「盛って」あると考えてよいでしょう。だいたい実数は一〇分の一くらいだったと考えると、およそ五〇〇〇人程度と推定できます。それでも、当時としてはたいへんな大軍だったことに間違いはありません。鎌倉入りした頼朝は、房総半島だけでなく、武蔵、相模、伊豆、駿河を従え、かつて父・義朝が実績を挙げた南関東を平定しました。まさに奇跡の四二日間だったわけです。
◆なぜ頼朝は鎌倉入りを果たすことができたのか
私は学生の頃、わずか四二日の間に、なぜ頼朝は東国の武士たちを次々と従え、ほとんど奇跡とも呼べる鎌倉入りを果たすことができたのか、恩師である石井進先生に聞いたことがあります。
日本中世史の研究者のなかでも特に「えらい」学者だった石井先生ですから、一介の学生にすぎない私たちは、おいそれと口を利くなんて、とてもではないですができません。ですから、本当にわからない問題しか石井先生に質問したことはありませんでした。
その数少ない私の問いかけに対して、石井先生は、「いや本郷くん、それが説明できたらあの時代を理解することができたということなんだよ」と答えて、それ以上は教えてくれませんでした。
このときに石井先生がどんな解答を持っていたかは、私にはいまだにわかりません。ですから、あらためて私なりに考えざるを得ません。◆頼朝の挙兵は武士たちの不満の表れでもあった
東国の武士たちにとってみれば、やはりさまざまなかたちで西国の朝廷から搾取を受けていたのだろうと思います。頼朝の挙兵は、まさに朝廷から搾取されることに対する武士たちの不満の爆発と捉えられます。
自分たちの代表となってくれる神輿として頼朝を担ぎ出したのではないかと私は考えます。
頼朝は平家追討を目的として兵を挙げたとされますが、実のところ、源氏対平氏という対立は根本的な問題ではありません。このときの平家政権は、いわば朝廷という外皮をまとっているわけですから、言うなれば、頼朝の挙兵はそのまま朝廷に対する異議申し立てだったと思うのです。
そうだとすると、在地領主である武士たちとしては、自分の土地を守り、自分の利益を守りたいと考えていたわけです。
しかし、自分たちは文字の読み書きもできない。朝廷と交渉しようにもそれはできない。だから、源頼朝を自分たちの代表として押し立てて、代わりに朝廷との交渉をやってもらおうとした。だから頼朝を担ぐというのは、第一に自分たちの利害を考えてのことだったのです。
◆武士たちが自分の利害のために、担ぐ神輿を決めた
ここに至って意識してもらいたいのは「家臣の合意」が武家の棟梁を決めるということです。
在地領主である武士たちが自分の利害のために、担ぐ神輿を決めている。それは頼朝の父・義朝が南関東で活躍したときと実態はまるで変わっていません。
義朝の下に集った武士たちも、頼朝の下に集った武士たちも、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」というかたちで自分たちの利益のために行動し、義朝や頼朝を担ぎ上げたということになります。
※本稿は、『「将軍」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
本郷和人
松本潤さん演じる徳川家康が話題のNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。天下を統一し、幕府のトップとして武士を率いる「将軍」になる家康の歩みが描かれていますが、「将軍とは言え、強力なリーダーシップを発揮した大物ばかりではない」と話すのが歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生です。たとえば「征夷大将軍」に任命されたことで有名な源頼朝ですが、本郷先生いわく、そもそも彼を担ぎ上げたのはむしろ在地の武士側だったそうで――。
【絵】源頼朝は真鶴を経て海路で安房国(千葉県)へ逃げる。絵は逃走する源頼朝を追う平氏方の武将たち
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◆源頼朝の挙兵と奇跡の四二日間
十代前半に流人となった源頼朝は、二〇年もの月日を配流地である伊豆で過ごすことになりました。そしてついに治承四(一一八〇)年八月一七日、頼朝は平氏追討の兵を挙げます。
伊豆守目代の山木兼隆を討ち、初戦に勝利するも、大庭景親・伊東祐親らの軍勢に石橋山で敗れ、土肥実平らの助けを受けて、わずか七人で船に乗って房総半島に逃れます。そこで千葉常胤や上総広常ら、父・義朝にかつて従った武士たちを味方につけて再起を図り、鎌倉入りを果たすのです。石橋山の敗戦からわずか四二日後のことでした。
『吾妻鏡』によれば、四二日間のうちに兵の規模は五万人に膨れ上がったとされています。
『吾妻鏡』は鎌倉幕府の執権となった北条氏の命で作成された記録ですから、軍勢の数も幕府側に都合のよいように「盛って」あると考えてよいでしょう。だいたい実数は一〇分の一くらいだったと考えると、およそ五〇〇〇人程度と推定できます。それでも、当時としてはたいへんな大軍だったことに間違いはありません。鎌倉入りした頼朝は、房総半島だけでなく、武蔵、相模、伊豆、駿河を従え、かつて父・義朝が実績を挙げた南関東を平定しました。まさに奇跡の四二日間だったわけです。
◆なぜ頼朝は鎌倉入りを果たすことができたのか
私は学生の頃、わずか四二日の間に、なぜ頼朝は東国の武士たちを次々と従え、ほとんど奇跡とも呼べる鎌倉入りを果たすことができたのか、恩師である石井進先生に聞いたことがあります。
日本中世史の研究者のなかでも特に「えらい」学者だった石井先生ですから、一介の学生にすぎない私たちは、おいそれと口を利くなんて、とてもではないですができません。ですから、本当にわからない問題しか石井先生に質問したことはありませんでした。
その数少ない私の問いかけに対して、石井先生は、「いや本郷くん、それが説明できたらあの時代を理解することができたということなんだよ」と答えて、それ以上は教えてくれませんでした。
このときに石井先生がどんな解答を持っていたかは、私にはいまだにわかりません。ですから、あらためて私なりに考えざるを得ません。◆頼朝の挙兵は武士たちの不満の表れでもあった
東国の武士たちにとってみれば、やはりさまざまなかたちで西国の朝廷から搾取を受けていたのだろうと思います。頼朝の挙兵は、まさに朝廷から搾取されることに対する武士たちの不満の爆発と捉えられます。
自分たちの代表となってくれる神輿として頼朝を担ぎ出したのではないかと私は考えます。
頼朝は平家追討を目的として兵を挙げたとされますが、実のところ、源氏対平氏という対立は根本的な問題ではありません。このときの平家政権は、いわば朝廷という外皮をまとっているわけですから、言うなれば、頼朝の挙兵はそのまま朝廷に対する異議申し立てだったと思うのです。
そうだとすると、在地領主である武士たちとしては、自分の土地を守り、自分の利益を守りたいと考えていたわけです。
しかし、自分たちは文字の読み書きもできない。朝廷と交渉しようにもそれはできない。だから、源頼朝を自分たちの代表として押し立てて、代わりに朝廷との交渉をやってもらおうとした。だから頼朝を担ぐというのは、第一に自分たちの利害を考えてのことだったのです。
◆武士たちが自分の利害のために、担ぐ神輿を決めた
ここに至って意識してもらいたいのは「家臣の合意」が武家の棟梁を決めるということです。
在地領主である武士たちが自分の利害のために、担ぐ神輿を決めている。それは頼朝の父・義朝が南関東で活躍したときと実態はまるで変わっていません。
義朝の下に集った武士たちも、頼朝の下に集った武士たちも、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」というかたちで自分たちの利益のために行動し、義朝や頼朝を担ぎ上げたということになります。
※本稿は、『「将軍」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
本郷和人
✨ENJOY更新vol.221✨
你过得好吗?
2月是有些冷呢。
空气比较干燥所以天空很漂亮,但确实冷。。
2月就是这样呢。
话虽如此,大部分时间我都在摄影棚里,所以只有早上和回去的时候还算有点时间可以感受到这些
大河剧「怎么办家康」有在看嘛?
已经播了8集了呢!
三河一向一揆该怎么办!?
故事讲到这儿了呢。
我这边拍摄进度则要稍稍领先一些。
已经正式开播,所以该说开始追进度了,但这样说来,必须要这样你追我赶一直到12月的最终回啊
就是这样的感觉
去年6月开拍,所以现在这个节点大概可以说是折返点吧?就现场的情况来看是这样呢。
不过,我完全没有站在折返点的实感呢,拍摄还要继续,角色在不断成长,而我因为拿到了后续新剧情的脚本而充满期待,在每日的拍摄中,我也在摸索着能够作出怎样的表现。
真是只有在大河剧中才能获得这样的机会啊〜。。
比起家人或者朋友,现在与“怎么办家康工作团队”在一起的时间要更长,该说已经成为生活的一部分了吗,这种“每一天都是为了拍这个戏而度过”的感觉,可太厉害了呀??
能够让人如此深地埋进一部作品里,这样的创作环境也是非常值得感激的。
请务必每周收看,幸甚至哉✨✨
很随意地拼凑了一篇文章呢 笑
总之我过得很有精神✨
差不多也该是时候听听各位粉丝的感想了,俱乐部的直播之类的,来整一个吧!!??
让我研究下时间!
那么、再会✋
2023.02.28 松本润
#松本润[超话]#
你过得好吗?
2月是有些冷呢。
空气比较干燥所以天空很漂亮,但确实冷。。
2月就是这样呢。
话虽如此,大部分时间我都在摄影棚里,所以只有早上和回去的时候还算有点时间可以感受到这些
大河剧「怎么办家康」有在看嘛?
已经播了8集了呢!
三河一向一揆该怎么办!?
故事讲到这儿了呢。
我这边拍摄进度则要稍稍领先一些。
已经正式开播,所以该说开始追进度了,但这样说来,必须要这样你追我赶一直到12月的最终回啊
就是这样的感觉
去年6月开拍,所以现在这个节点大概可以说是折返点吧?就现场的情况来看是这样呢。
不过,我完全没有站在折返点的实感呢,拍摄还要继续,角色在不断成长,而我因为拿到了后续新剧情的脚本而充满期待,在每日的拍摄中,我也在摸索着能够作出怎样的表现。
真是只有在大河剧中才能获得这样的机会啊〜。。
比起家人或者朋友,现在与“怎么办家康工作团队”在一起的时间要更长,该说已经成为生活的一部分了吗,这种“每一天都是为了拍这个戏而度过”的感觉,可太厉害了呀??
能够让人如此深地埋进一部作品里,这样的创作环境也是非常值得感激的。
请务必每周收看,幸甚至哉✨✨
很随意地拼凑了一篇文章呢 笑
总之我过得很有精神✨
差不多也该是时候听听各位粉丝的感想了,俱乐部的直播之类的,来整一个吧!!??
让我研究下时间!
那么、再会✋
2023.02.28 松本润
#松本润[超话]#
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